自分の身体に自分が介入するということ

先週は京都にてパーソナルレッスンを実施し、先ほど無事東京へ戻ってきました。
 
ここ最近の京都でのレッスンは、西日本の各地から起こしになる方が多く、今回は京都、大阪、兵庫のほか、遠くは島根、北九州からお越しになりました。
 
 
レッスン代やレッスン時間より交通費の方が高いけれど、それでも来てくださる生徒さんの思いは、私にとってはとても重いものです。
 
でも同時に、届く人にはしっかりと届いているという実感を感じる瞬間でもあり、濃密なエネルギーの交換ができることに喜びを感じています。
 
今回は運良く、台風が来る前にレッスンが実施できました。
私はこれまで6年間、毎年9月にバリセミナーを実施してきましたが、バリセミナーもこれまで何事もなく実施してこれました。こういうとき、私は見えないものからの加護を感じます。
 
九州地方は今、まさに台風が通過している最中ですね。
皆様の無事を心からお祈りしております。
(九州の生徒さんは、京都で必要物資を調達して帰宅されました。)
 
また別の生徒さんは、3人の子育て真っ最中の方で、出産後、ガクッと体力が落ち、疲れやすくなった身体を根本的に回復させるため、問題を後回しにせず私のメソッドを勉強してくださっている方でした。
 
私のメソッドを体系的に学べるオンライン講座〈Best Body Club〉にて、自分のペースで学び、すでに身体の変化は起きていたけれど、さらに直接指導で身体をみてほしいということで遠くから来てくださいました。
 
直接指導では、全身の骨格矯正の施術を行うのですが、私の施術は、一気に血が巡るような感覚になり、身体が軽くなります。いろんな調整がされるので「目の前が明るくなった」とおっしゃる方もいます。
 
その生徒さんもその価値を感じてくださり「これ、通ったらものすごく身体が変われそうですよね」と言ってくれました。
 
この感覚は体感した人でないとわからないことなのですが、この体感によって「骨のポジションが変わるとこんなに一気に身体は軽くなるのか」ということを体感として理解してもらえます。
 
その上で、「この軽くなった状態を維持するにはどうしたらいいか」という動作の指導をしています。
 
私は実年齢は37歳ですが、身体年齢は25歳と出ます。(Byオムロン体重計)

身体が重だるくて動けないと思ったことはもちろんありません。常に循環する身体は使っても使っても、大して疲労しないというか、むしろその疲労はとても心地の良いもので、ぐっすり寝れて、元気に起きるというサイクルを送るための必要な要素となります。
 
ただし、私自身は健康オタクではありません。健康でいるために身体のことをやっているのではなく、単に重力に対して身体をどう操るかということ自体に異常に興味を持っているだけなのです。
 
しかし、重力に対する身体の扱い方を知ると、美しいボディライン、美しいシルエット、美しい所作、疲れない身体、柔軟性があり故障しづらい身体、便秘や生理痛などに悩まされない身体、など、あらゆることに応用できるのです。
 
ここ最近、ネット上では生理痛にまつわるあらゆる問題が取り上げられつつありますが、その問題の中に「自分の身体を整える」という視座が全く見られません。
 
もちろん、骨盤の正しい位置を身体で理解し、骨盤を安定させる筋肉を鍛えたとして、全員が生理痛から解放されることはないでしょう。
 
でも、私の生徒さんの中では、軽減された方も多数います。
しかし世間の議論では、「痛いときはとにかく動けないから寝る」「薬を飲む」「ピルを飲む」「会社や男性からの理解をもっと得る」などについての議論だけが盛んに行われているように思います。
 
なぜ人間は自分の身体をアップデートすること以外の方法でなんとかしようとするのか。
自分の身体を変えちゃったほうが早いんじゃ、、、と思うケースだってあります。
 
でも、多くの人にとっては面倒に思うのでしょう。
薬、サプリ、コルセット、勝手に腹筋を鍛えてくれるマシン。
なるべくそういうもので理想のボディになれる方法があれば、それはバカ売れします。
 
この世に生まれた身体は死へと向かっています。
必ず細胞は老化していきます。
一生、腹筋を鍛えてくれるマシンやらサプリやらにお世話になるなんてことは考えられないです。
 
みんなは一体どこへ向かっていきたいのだろう。
大衆のニーズをみていると、そういう風に疑問に思うことはよくあります。
 
“自分の身体に自分が介入する”ということから得られること、起きることは様々にあります。
もちろん、それだけが”善”ではありません。
私は基本的に「万能」を疑います。
 
でも、自分の身体に自分が介入することで、美しさ、活力、豊かな感情、自信、自尊心、癒し、自己をコントロールする技術など、その人が本当に欲しかったもの(境地)が手に入るかもしれません。
 
現実は多層にある(By フランス哲学者ドゥルーズ)
(さっき、友人の男子高校生が教えてくれました)
 
現実は一つではなく、多層にあります。
表層の次元でしか見れない視座は、いつまでも目の前のことに翻弄されます。
 
人間は神ではないのでそもそも全体を見ることはできませんが、複数の現実をみれる視座は、目の前のことに翻弄されず、抽象的に物事をみて、今自分に必要なことにアクセスできるのだと思います。
 
(京都では久しぶりに車生活で気分転換になった!)