アートの語源は”身体に身についた技”

晩御飯を食べた後、3時間のうたた寝という失敗を久しぶりにやってしまい、テンションが高くなった私はなぜか夜な夜なアプリで絵を描いてしまいました。
 
 
見本は坂口恭平さんのパステル画。なぜかわからないけど、坂口恭平さんの絵にすごく癒されます。ぱっと見、写真のような美しさだけど、惹かれているのはそこじゃない。絵画の絵画性を感じると言いますか。

絵本作家で生物画家である舘野 鴻先生の絵とも通ずるものを感じます。舘野先生がササッと描いた昆虫の絵は、生き生きとしていて、舘野先生の昆虫愛がにじみ出ている。坂口恭平さんの絵も、坂口さんのこの世界に対する愛みたいなものがにじみ出ているのかな。

ここで今日はせっかくなので、アートの語源の話をしましょう。

古代ギリシアでは〈身体に身についた技〉に対して〈アルス〉(=アート)という言葉を使っていました。なので実は、アートとは、芸術の範囲だけではなく、例えば私の〈人の身体を回復させる技術〉や〈自分の身体をコントロールする技術〉もアートと言えるのです。詳しくは、養老孟司さんから学んでくださいね。

アートはたとえ国が滅びても、文明を回復させる力がある。ヨーロッパでは過去の歴史の中で、繰り返しそのような悲劇から立ち直ってきた経験があるからこそ、アートを最優先に守ろうとします。日本も悲劇はあったのに、残念ながらそれができない。

たとえあなたの世界から大切なものや大切な人が消えてしまっても、絶望から立ち上がらせてくれるものは、身体に身についた技(=アート)であると私は思います。それは、内なる神とつながっていることを感じるからです。

私は私のこれまでの人生の中で、私しか知り得ない〈人の身体を回復させる技術〉に何度も助けられました。私はそれを〈動きの神様〉と呼んでいます。人生の中で酷い目にあっても、むしろその悲劇を血肉に変えて、何度でも立ち上がることができました。

人は一人で生きられないけど、周りの人を傷つけ、傷つきあいながら生きている。
それは悪意があるものも、悪意がないものも、善意によるものも含めて。
自分が良かれと思っても、相手にとっては傷になることがあり、
相手が良かれと思っても、自分にとっては傷になることがある。

事実であれ思い込みであれ、傷ついた人は確かに傷ついている。
その傷の深さはその人にしかわからない。

だけどその傷から回復し、また元気に生きる自分へと導いてくれるものが、自分の身体に身についた技/技術だと思います。だから誰かに愛されない(承認されないと)と回復できないというわけではないと思います。人は、最終的には神とのつながりを感じることができれば救われる。

またアートとは、〈傷ついて元に戻れない〉という性格もあります。
疲れてシャワーを浴びて回復するのが娯楽であり(=現状維持)
傷ついて元に戻れないのがアートです。(=現状の枠を超える)

例えばピカソのキュビズムがこの世に誕生した瞬間、もうキュビズムのない世界には戻ることはできません。そしてその傷を受けた他の感度の高いアーティストたちはどうしても模倣してしまうのです。そうやって時代のトレンドが移り変わってゆく。

身体に身についた技は消えることがありません。
ピアノ、習字、スポーツ、舞踊、なんでも良いです。経験した人は、身につけたものは、たとえ劣化しても、消えることはないということがわかるでしょう。

私が身につけた身体を動かす技術も、二度と消えることはありません。
19歳から今も共に生きているので、どんどん洗練されていきます。
私が人に伝えたいのは、この技術です。
簡単に言うと、私は道場の師範的なことをしたいということです。

身体の勉強を始めて早18年。自分のやりたいことを「道場の師範的なことをしたい」と改めて言語化したのは今が初めてです。長らく積み重ねて洗練された、道の途中の言葉です。昨日までなかった新しいことは日々生まれています。

私がやろうとしていることは、自分の身体に対するコンプレックスに対して、短期間で望む結果が出る方法が求められる世の中に対するアンチテーゼになります。だからそのまま純粋にやろうとすると大衆受けしません。メディアも私の考えを取り上げないでしょう。それでも道場的な空間は、社会にとって必要だと思います。だから模索し続けるのです。

身体に身についた技/技術=私の中のアートは、誰も私から奪うことはできません。
これがあなたを絶望の淵から何度でも救い続ける一つの手段です。