最上さんの定期稽古に初めて参加して

昨日は4ヶ月ぶりに最上さんの舞踏のお稽古に参加することができました。
 
長年続けておられる定期稽古に参加するのはこれが初めてで、最上さんの稽古場は写真や映像で何度か見ていましたが予想通りとても素敵な空間で、参加できて本当に良かったです。今度こそ、稽古の余韻が冷めないうちに感じたことを書いておこうと思います。
 

 
これまではワークショップの会場で最上さんとお会いしていましたが、稽古場の最上さんはとてもリラックスされているような気がして、いつも感じていた最上さんの周辺にだけある磁場(のようなもの)は感じませんでした。そのせいか私自身も緊張することなくごく自然と皆さんの輪の中に溶け込むことができたように思います。
 
私自身の体調としては、ここ最近もずっと寝不足は続いていたので万全ではありませんでした。それに4月から学校が始まって以来、全く余裕のない生活を送っていましたし、かなり俗世間にまみれていたというか、自分の中ではだいぶケガレが溜まっている状態だと思っていたので、そんな状態で参加するのはどうなんだろうという懸念が少しありました。
 
最上さんの稽古は、私にとってどれも心地よく自分の身体に合っていると感じています。
 
昨日の私はケガレを浄化することが自分の目的の一つであったのだと思うので、稽古全体を通して自我を薄くしていく作業がとても心地よかったです。
 
最初に行った、場を作るための10分間の斉唱からして、私は日常の私でなくなり始めていたと思います。途中から痰が絡んでしまい、そのまま声を出していたので余計に弱々しい声で斉唱していました。他の方の声に支えられながら、全体の一部になっていきました。
 
落下と床稽古では、私の身体はやはり不思議な状態に陥りました。最上さんの稽古に参加するのはこれが3回目ですが、今のところ毎回同じような現象が起こります。
 
落下するまではまだ「これまでの私」であったと思います。そして床に仰向けになったときは、寝不足だったので最初は気づいたら夢を見ていました。「これではヨガのレッスンの最後にやるシバアーサナと同じ次元ではないか」と思い、「私は落ちている」「落ち続けている」ということだけに意識を向け、うまくモードを切り替えることができました。
 
そのあと鈴の音とともに起き上がる動きに移ります。
(この稽古は極力筋力を使って起き上がらないことが大前提。重力に抗うのではなくどうにかして流しながら動いていきます。)
 
私の身体はあまり迷うことなく自然と動き始めました。
 
3回お稽古に参加させていただいて、惰性で動いてしまっているか、目的を見失わず動いているかが自分の身体である程度感じれるようになってきたので、何かが途切れて惰性で動こうとするたびに動きを止め、やり直すということを繰り返しながら起きあがろうとしていきました。
 
立膝状態になったときくらいから、涙と鼻水(とよだれ少々)をポタポタと落としながら、私の身体はだんだん変容していきました。何かが憑依したような感覚もあり、この世のものではない存在が私の身体に降りてきたような気もしました。
 
立膝状態でなかなか起き上がることができないので、足を引きずって横に動くしかできない状態となりました。そのとき「私は自分を許せない」という言葉が出てきました。私は多分、催眠術にはかからないタイプだと思うので、こういう状態になっても冷静で客観的な私が同時にあります。なので「自分を許せないんだ。意外」と思いながら動いていました。
 
その他、原爆で苦しみながら亡くなった人のことを思ったり、日航機墜落事故で亡くなった方のことを思ったり、不完全な身体で生きた人のことを薄っすらと思ったりしながら動いていました。
 
なぜ自分を許せないのか、はっきりとはわからないのですが、でも多分、普段の自分の傲慢さ(動植物の命を奪い、地球環境を汚し負担をかけながら自分は快適に過ごし、思い通りにことを運ばせるために自分のことばかりを主張する自分)や最上さんにせっかく呼んでいただいたのになかなか稽古に行くことができない自分に対して怒りを持っていたということはあると思います。
 
それでも今の私は傲慢さを引き受けながら生きることにコミットしているので、それ以上は迷わずに、窓から漏れていた光を頼りに立ち上がることができました。そのころの身体は全身が震えていて、終えたあとはケガレがだいぶ落とされたような感覚でした。その状態を例えるなら「千と千尋の神隠し」のカオナシでしょうか。
 
そのあとは「触る」と「触れる」の違いを学ぶ稽古です。
 
まだ浅い理解しかできないのかもしれませんが、「さわる」と「ふれる」は全く別次元であるということははっきりと感じとりました。でもこれは普段自分の生徒さんの身体をさわるときも、私はふれるようにしてさわっていると思うので、分かりやすかったのかもしれません。
 
「さわる」には明らかな自我があります。筋力も使います。でも「ふれる」では自我がひっこみます。ふれると同時にふれられてもいるので、中動態の状態になるのだと思います。
 
その状態を失わずに、最後の稽古を行いました。
私は後半のグループだったのですが、前半の方々はフリーダンスを行いました。
 
まず稽古場の入り口に、すすけた着物の裏側を見せるようにしてのれんのように垂れ下げます。踊る人は外から着物にふれてくぐり、稽古場に侵入して自由に踊るというものです。
 
のれんの着物はあの世とこの世の境界であり、稽古場は聖域となります。最上さんが見本を見せてくださった時、おそらく全員がぎょっとしたと思いますが、その見本のおかげで何をすれば良いかがとてもよくわかったような気がします。
 
前半のグループ5人が一人ずつ聖域に入ってくる様子は、見ている私たちからすると、得体の知れない存在が神聖な場に入ってくるといった感じでした。
 
ただフリーダンスとはとても難しいもので、なんというか、脆弱な自分を引き受けて「我ここにあり」と宣言する度量が必要であり、それは一朝一夕で作れるものではないので普段の実力が浮き彫りにされてしまうものなのだそうです。
 
後半のグループはやり方を変えることになりました。
一人ずつ着物をくぐったら、反時計回りに歩きながら、右腕だけを上げたり下げたりする。という振り付けが入りました。そのような制限があることで逆に自由度が増すはずだという試みです。
 
結論からいうと、踊った私としてはとても動きやすかったと感じました。まず最初の着物をくぐり、この世からあの世へ侵入する動き。これは皆さんの見本をしっかり見た上でのチャレンジだったので、準備万端で臨めました。
 
稽古場には美しいお面が飾ってあるのですが、その影響を受けてか、私は「能面をつけている」と思いながら踊りました。そうすると、そういうものが身体に宿ってくれるのか、身体が勝手に動く感じが少なからずともありました。(私自身は相変わらず鼻水垂らして動いていました。どうしても出ちゃうんですよね)
 
稽古が終わった後のお話で、「盆踊りの原型ってこういうものじゃないかと思いました」という感想を述べられた方がいて最上さんも共感されていたのがとても嬉しかったです。そういう存在の一部になれたことがなんとも心地よく感じていました。
 
私は普段、自分の姿を映像でみると、なんかフワフワしているなと思っているのですが、あのときの私はどんなふうに映っていたのだろうかと思います。ちゃんとお化けになれていたのでしょうか(笑)
 
私は最後まで「お前はまだ許されていない」というような感覚を持ちつつ、ただその仕打ちを甘んじて受けることに少し喜びも感じていたので、自分としては大満足な稽古でした。(なんだか矛盾だらけですが)
 
最上さんの目に映る世界は、私にはまだまだ全然計り知れません。最上さんの何に惹かれ、何に敬意を抱いているのか自分でもよくわかっていません。ただ今は最上さんが言っていること、感じていること、見ている世界を少しでもわかるようになりたいという思いだけははっきりしています。
 
私はディスレクシアの気があるので、言語の世界に苦手意識があります。本も全然読めません。が、動きの世界は大好きです。言葉として言っている意味はわからなくとも、先に身体で理解するというのが私のやり方なのかもしれません。
 
舞踏は感情的でイマジナリーな世界ではなく、とことん身体にコミットしているところが何より好きです。そうでなければ私は一切興味が湧かないでしょう。人間である以前に生き物や生命体であることに対してまともに向き合っているものが舞踏なのかな、などと思ったりします。