どれほどの体験が起こせたか?

今日は初めての試みをした。
いつも対面で実施している美脚セミナーを、オンラインのライブ配信で実施。
 
遠方はオーストラリア、近くは都内、他、 
 
 
福島、愛知、埼玉、大阪、兵庫、群馬、千葉、福岡、広島、佐賀、石川、岡山、神奈川、北海道、京都、茨城、高知、長崎、富山、三重、島根、岩手など、全国各地からご参加いただき、オンラインでしか実現できないことが実現できたことはとても良かった点。
 

 
オンラインでしっかり学んで理解してもらうためには、参加者の取り組み方にもあらかじめ助言が必要で、ただ単に対面でやっていることをオンラインでやるということだけでは成立しない。
 
また、そもそも〈動きを言語化する〉(しかも専門用語や前提知識がほとんどない相手に対して)ということはとても難しいことではあるが、これについてはかれこれ7年前からずっと訓練してきているので、その点についてはさほど問題がなかったように思う。
 
ただ、指導する側が生徒が見えない状態で行なっているので、どれほどの成果があったのか、きちんと教えたことができているのかどうかや、その都度の反応が逐一確認できないという点で、まだ手応えが感じれていない。(参加者からの感想求む)
 
また、オンラインでしかもライブ配信で行う場合、相手の見る能力、聞く能力、理解する能力が、対面で行うより必要になってくる。
 
対面であれば、生徒の動きをみて、こちらが説明したことがうまく伝わっていない部分を即座に把握し、即座にフィードバックできる。また、言葉で説明するより体感させれば一発で理解できる。
 
でもオンラインの場合は、今までの経験を駆使して、〈この指導の場面ではこのような誤解が生じるはず〉という風に、すべての問題のケースに対して、打ち消す説明やレクチャーをすることが必要になるので(そのため指導者には相当の経験が必要)意外と説明する時間が要する。
 
でも、参加者が画面越しに私の解説をしっかり見て、しっかり聞いて、私の音頭に合わせて集中して実践してくれていれば、対面指導も顔負けの成果が得られる可能性も感じた。

であれば、地方の方とこうして価値ある交流ができることはとても嬉しい出来事になる。
 
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一方、別の次元の話で、私が身体づくりを通して何をしたいのかという点において、オンライン化する社会にたいしてどのように補えば良いかという点は、今後も考え続ける必要がある。
 
私が担っている身体の分野では、遡れば西洋の思想によって心身が分離して、今では見た目のために身体を鍛える人が増えた。
 
私自身は、実はいわゆるトレーニング好きの人の「若々しくいたい」とか「かっこいい身体になりたい」というような見た目のことにはあまり興味がない。(人を好きになったり、尊敬したりするときに、姿勢がいいか悪いか、見た目が若いかとか引き締まった身体であるかどうかなどは一切関係ない。)
 
私自身は、〈動きそのもの〉に感染している。
自分の身体を動かすときの感覚を快楽的に感じている。
 
例えば、重力に対して適切に動かすと身体は軽くなり、その瞬間に柔軟性がアップしたりするが、逆の身体に負担のかかる動きをしたとたん、体感は重くなる。それがただただ面白い。
 
他には音楽と身体の動きと重力がハマった瞬間が楽しいし、水の中でフィンを履いて自分の身体と水を同化させた瞬間が楽しい。こういう感覚は、楽器を演奏する人とも似ている感覚だと思う。
 
空間に身体を同化させるには、まず「今自分はどういう状態か」ということを細かく感じ取る感覚が必要。その基礎はオンラインセミナーでも指導することはできる。
 
でも、私が私の勝手で生徒に本当に与えたいと思うものは、身体の感度の回復をすることであり、感情の回復をすること。感情を回復させ、情熱や内発性を発揮すること。理屈を超えて何かに感染したり、世界を信頼し、世界に身を委ねる状態になること。(ここでいう”世界”はいわゆる世界ではなく、ざっくりいうと宇宙のこと)
 
別の言葉でいうと、ときめいて生きることが最終ゴール。
生きてる!って感じで生きること。
 
それは都合よく見たいものしか見ない生き方ではなく、酸いも甘いも、一見不幸と思うことでさえも、全部引き受けて、死んだらできない時の過ごし方をするってこと。
 
それを身体づくりや動作という分野を通してどこまでできるかやってみたい。
 
ただそれには体験が必要で。
頭で(言葉で)理解するだけではダメなことで。
 
昭和真っ只中を生きた私の親世代は無条件に享受している感覚なので、親世代には私の苦悩がわからないだろうけれど。
 
人に近づいたり触れることがますます難しくなったこのご時世に、この課題の難易度はグンとアップしちゃったけど、自分自身の枠を壊しながら考え続ける。
 
2015年バリ島にて ↓ ↓