最初はヘレンケラーのウォーターの気づきと同じ

「身体の使い方」と一言で言っても、実際に何か目的をもって身体を使うということはとても難しいものです。
 
 
最初はとくに。
その上、初心者なのに先生のサポートなしで説明や見よう見まねだけの「自力で」となると、本当に厳しいと思います。
 
目的通りに身体を動かすということは、軸を作る身体づくりであっても、あえて支点を作らないという目的をもったダンスの動きであっても、それは「身体をコントロールする(操る)」ということであり、今まで無意識に身体を使っていた人がいきなりうまくできるはずがありません。わからなくて当然です。(ただし、理にかなった動きなので比較的うまくいく場合もあります)
 
そこで断念される方も一定数いらっしゃって、そういうとき、私は勝手に悔しさやもどかしさを感じています。
 
本人には見えていないその人の身体の可能性が見えてしまうからです。

また、私自身の身体で強烈な変化の体験を経験しており、何も知らなかったときの自分と今の自分とを比べてみても、その身体の感覚の差が大きすぎるので余計にそう思います。(私だけの体験でなく、継続的にみている生徒さんの多くが同じ体験をしています)

それともう一つ。「言葉することができないけど見えているもの」があり、それらを含めたあらゆる可能性を人の身体に感じています。
 
身体観は人それぞれで、自分の身体をどのように使って一生を終えるかなんて、その人自身の自由でしかないのだけれど、人は影響しあって生きていくものだから「ケアやエクササイズを通してねじれのない動きを少しずつ習得していけば、身体は回復していくよ(それはあなたの想像を超える変化かもしれないよ)」ということを淡々と伝えていきたいなと思います。
 
「ねじれのない動き」と一言で言っても、無意識にねじって身体を動かしている本人にとっては、それを認識すること自体が難しいのです。
 
ねじれているのに、ねじれているとは感じていないのですから。
 
だから、「もっとまっすぐ動かして」というダンスの先生の言葉は、1万ポイントの攻撃を与えなきゃやっつけられないラスボスに3ポイントくらいの打撃しか与えれないようなもので(←わかりづらい?)要は、それはアドバイスになっていなくて、起きている事実を述べている程度のことであり、「それが自分の身体でわかるなら苦労はしてないよ」という話です。
 
なので身体づくりとは「今、自分の身体がどうなっているか」ということを認識する力を育むことから始まるわけです。
 
だから本当は、触って教えるのが一番です。
 
ねじれのない動きとは、本人にとっては「やったことのない動き(認識したことがない動き)」なのだから、その身体の中に概念すらない状態です。だからこのプロセスを「最初はヘレンケラーのウォーターの気づきと同じようなもの」と説明します。
 
私たちの身体は基本同じパーツでできていますから、どの程度できるかには個人差がありますが、みんなだいたい同じ動きができるように設計されています。(もちろん先天的な異形などで非常に難しいか、不可能な場合もあります)
 
つまり、わかることができるはずなので伝えようとしているんです。
 
困っていなければ構いません。
困っていて、でも全然わからなくて諦めてしまいそうな人に、伝えたくなるのです。