最上和子さんの舞踏ワークショップに参加して

今日は最上和子さんの舞踏ワークショップに参加することができました。
 
感じたことや体験したことをほやほやのうちに残しておこうと思って書き留めます。
 
  
今回のワークショップはクラウドファンディングのお返しとして企画してくださったものでしたが、コロナ蔓延で長らく延期となっていたところの実施でした。
 
今後、最上さんに直接教えてもらえる機会はかなり少ないだろうから今回の企画は貴重だなとは思っていましたが、3時間という舞踏の練習としては短めの?ワークショップだったので、何も掴めないかもしれないけれど、特に気合は入れずに気軽な気持ちで参加してみようといった心境で行きました。
 
会場に着いたらスタッフ陣が数名準備をしてらっしゃり、メール対応してくださった佐藤さんや最上さんの方から「吉永さん?」と声をかけてくださり、よく覚えてくだっさっているんだな、なんて思いました。
 
●ワークショップのはじまり
 
踊りとは一体なんなのか。
 
武術やあらゆるボディワークやボディセラピーとも違うのはもちろん、現代にあるあらゆるダンスとも違うもの。現代にあるダンスは、振り付けや動きのルールが決まっており、それを覚えることでそのダンスを踊れるようにはなるけれど、それは舞踏でいうところの踊りではないというようなお話をしてくださいました。舞踏はたしかに動きのルールは一切ありませんが、でもそれだけが特徴というわけではありません。それを稽古を通して体験しましょうというのがワークショップの目的だったと思います。
 
踊りとは「我ここにあり」と宣言するようなことだと。舞踏とは「存在とは何か」「存在するとはどういうことか」ということにがっつり触れるものであるのだと思います。
 
奈良に拠点を持つ舞踏家の田中誠司さんと初めてお会いしたとき、誠司さんが私を見ることで「実存」というものを実感した記憶があります。「ああ、私はここにいたのか」というような感覚です。普段、人は人を見ているようで見ていないのかもしれません。普段から修行を積んでいる方に見られたときに、めちゃくちゃ見られることによって私という存在が認識されるのかもしれません。
 
また、「存在」に触れるには「形のない存在/内在」というものが重要な要素になるというようなこともお話ししてくださいました。
 
●自己紹介
 
自分という人間を紹介するときに、名前、職業、出身、年齢などを言うことで自分という存在をなんとか説明するわけですが(←改めて考えるとかなり無謀なことですね)今回は、丁寧にスタジオの真ん中まで歩き、座り、お辞儀をしてから、自分の名前を述べるというやり方を体験しました。そのときにどのように説明してくださったかは忘れてしまったのですが、簡単にいってしまうと「魂を込めて、誠実に行う」という感じだったと思います。
 
私は、何百万、何千万といるはずの先祖とのつながりを思いながらこの自己紹介をやってみました。
 
全員終えた後、最上さんが「みなさん思いの外とても良い挨拶だった」とおっしゃったので「あれでいいのかな」と思いました。
 
●崩れ落ちる/濡れて今にも破けそうなボロ雑巾が、ヘタヘタヘタ
 
ここからメインの稽古です。
まずは立っている状態から崩れ落ち、そこから(できる人は)立ち上がり、また崩れ落ちるという稽古。
 
「崩れ落ちるとはどんな感じか」ということをイメージするために、最上さんが用意されていたヒモを使って、ヘタヘタっと崩れ落ちる様子を再現してくださいました。また、「今にも破けそうなボロ雑巾が水に濡れてベシャッと床に落ちる感じ」という説明もイメージしやすかったです。今から思うと、最上さん自身が見本を見せないことでより想像/創造性が膨らんだのかもしれません。この稽古は5分で行うものだったのですが、全然時間が足りず、一度崩れ落ち、全ての力を抜くところまでで5分かかってしまいました。
 
●床稽古
 
仰向けの状態で床に寝て、すべての力を抜き、床と一体になるというような稽古です。10分間で、できるだけ際限なくすべての身体の力を抜いていきます。床の硬さを感じる部分は、自分の筋肉などが反発している証拠で、そこに息を吹きかけるようなイメージで力を抜いていくと、床がやわらかく感じたり、床とピッタリになる感覚になるというような説明がありました。
 
●床から起き上がる/歩く
 
最小の力で身体に支点をつくらずになんとかして起き上がり、起き上がれた人から歩くという稽古です。これも10分で行うのですが、なかなか難しいわけです。支点を作ったり、力を入れてしまうたびに「そうじゃない」と認識してやりなおす。そうやってなんとかして立ちあがろうとするわけです。
 
●異世界
 
この床から起き上がる/歩くの稽古をできるだけ誠実にやっていたら、私は突然異世界にいってしまいました。起き上がろうとしているときはとにかくなかなか立てなくて、なんとかして立ち上がれたわけですが、そのとき私の髪の毛が顔面を覆っていて、視界はわずかしかありませんでした。そこから歩く動きに移行し始めてまもなく、あのときと同じ感覚が急にやってきたのです。
 
それは去年のゴールデンウィークに参加した田中誠司さんの舞踏合宿で行ったイニシエーションで起きたことと同じ感覚です。一瞬、「最上さんが見てくれているな」と思いました。その直後、なぜか感極まって、私は身体を震わせながら号泣していました。嬉しいとか悲しいとかとは全然違う状態で、なぜ涙や鼻水が出てくるのか自分でもよくわかりません。が、とにかく子供みたいに堪えきれずに泣いてしまうのです。
 
その時の私を言葉にするなら、やはり「無垢」だと思います。
 
何者でもない私。
社会的な役割はもちろんのこと、日本人でも、女でもない、無垢の私。無垢の涙。私の魂が震えたのかもしれません。魂なんかあるのか?って感じなのですが。
 
「3時間のワークショップだから」と思いきや、こんな短時間で異世界に行ってしまうのかと驚きました。
私にとっては超高速の宇宙旅行です。
 
もう少し時間があれば、まだまだ泣いていたかもしれませんが、10分という時間がやってきて、号泣真っ最中でこの稽古は終わりました。でも泣き止んだあとは子供の頃ワーっと泣いたあとの感じと同じで。悲しさがない分、本当に「浄化」という言葉がぴったりの心身だったのではないかと思います。
 
しかし、あれは一体なんなんだろう?というのが一番の感覚です。
 
●物を使った稽古
 
取手のないコップや湯呑みを使った稽古です。自分の前に置き、誠実に座った状態からコップを両手でとり、水を飲む動作をし、置くという流れです。が、私はその前の稽古でかなり燃焼してしまったらしく、あまり覚えていない感じです。ただ、そのときの私はかなり簡単に集中できる状態だったように思います。(今度は涙ではなくよだれが垂れてました)が、深く潜れなかった気がします。空間と物と自分その関係性をもっともっと丁寧に扱えればよかったと思いました。
 
●目を瞑って自分に触れる/そのまま立つ/ゆっくり目を開けて歩く/音楽にまみれる
 
これが最後の稽古でした。
無駄な力を抜いてきちんと座り、そこから目を瞑り、手のひらで自分の顔から下にゆっくりと触れていきます。手のひらと触れている肌が浸透し合うようなイメージです。普段私たちは視覚で認識していますが、視覚がない状態で自分の身体を認識することを味わいます。最上さんの合図がきたら、今度は目を瞑ったまま立ち上がり、立てた人からゆっくりと目を開けて歩きます。目を瞑っているところからゆっくりと開けるというプロセスを辿ることで、その差を感じ取りやすくなります。今振り返ってみると、やはり目を開けた方が空間や存在を感じ取りやすいなと思います。「誠実に歩く」というのはなかなか難しいもので、なんとなくちゃんと歩けてなかった気がします。音楽にまみれるというのもまだまだだなという感覚でした。
 
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最後に座って丁寧にお辞儀をして終了しました。
 
先生から習う舞踏の稽古は久しぶりでしたが、言葉としては何も掴めておらず、あれは一体なんなんだ?と謎が深まりました(笑)でも、身体では確かに内在を感じ取れたように思います。去年の舞踏合宿がまぐれや奇跡だったわけではないんだというのがわかりました。
 
身体という聖なる器がある限り、内在に触れる、内在を体現する踊りというのはきっと誰でもできるんだろうと思います。しかし、教えるのはとても難しそうです。自力で練習するのもとても難しいです。でも内在に触れることができた私は、触れたことがない私にはきっと戻れません。貴重な機会をいただけて、とても嬉しいです。