『検索しないほうがいい』

大好きな坂口恭平さんがラジオに出ていたので聴いた。
するとある言葉で胸がざわめいた。
 
「僕は畑に関する情報を1回もググったことがないんです」と。
 

坂口さんは続ける。
 
「だからライ麦を作ろうと思ったら、作ったことがある人に話を聞きながら(自分で判断してやる)」

「土は、その土によって全然違うんです」

「その土に一番近い人じゃないと、勘がわからないんです」

「すると自然な形で(土を/作物を)感じれるんです」
 
その通りだと思った。
私も身体のことを学ぶときにググったことがない。(当たり前だけど)
バレエを学ぶときも、バレエの先生の言葉を聞きながら自分で判断してやる。(ここで大事なことは、実践者の言葉を助けにするが鵜呑みにしないということ)
 
しかし検索して得た情報は、『自然な形でそれを感じる(捉える)機会』を奪ってしまうのだ。
 
よかれと思って得た情報が、逆に理解の妨げになっているということだ。
 
私の師の夏嶋先生の考え方は、理学療法士やアスレチックトレーナーなど、すでに資格を持っている人には理解しづらいところがあるということを師が言っていたことを思い出した。
 
私はまっさらだったからとても自然に理解することができたし、手応えを大切にするところもあった。その基盤によってどんどんオリジナル要素が発展していくことも可能になった。
 
健康や運動情報はテレビ番組でも盛んだから、みんな理解がちぐはぐになってしまうんだろう。
 
これは例えると、日本語を話せるがゆえに英語の発音ができない/聞き取れないのと似ている。生粋の日本人が血肉となっている日本語の感覚を解除することはなかなか難しい。
 
本当は、自然な形で身体を感じる(捉える)ことを手放してはいけないのに、情報によって理解の邪魔が入る。私にはそのように感じれる。なぜなら私自身は全く違う理解のプロセスを辿っているからだ。
 
多分ドツボにハマる人は、情報に頼り、自らの身体性を失い、余計にわからなくなってそれを繰り返すうちに自信をなくし、自分はダメな人間だと思い込み、沼から抜け出せなくなる。これは”情報の奴隷”になっている状態だ。
 
情報に頼れないなら何に頼ればいいのか。
それは「座標」なのだろうと私は思う。
(情報はそもそも答えを教えてくれるものではない。ヒントにしたり、活用するものだ。私のこの記事自体も坂口さんの言葉をヒントに書いているように。)
 
「土は土によって全然違う」というのは、人間も同じことだ。
身体は一人一人全然違う。これはたくさんの人の身体を触ってきている私が言うのだから間違いない。本当に同じ感触の身体がない。だから万人に通用するエクササイズやら施術法はないはずで、あると言い切る人を私は信用しない。
 
だから一人一人、自分がしっくりくる「座標」の位置が違うはずだ。
いつ、何を、どこで、どうすれば身体が喜ぶのかは、人によって違う。
この自分の座標をいつも探す。世界と自分の間にある座標を。
これは先日の舞踏合宿で学んだ感覚だ。
 
座標に頼るということは、「自然な形で感じる力」に徹底するということだ。
 
そして、自分の座標を探すためには、言葉以外のものに意識を向けるということも必要なのだ。
 
坂口さんはそういう意味で、畑やパステル画やサックスや陶芸や織物や歌をしていて、自然界から受け取ったことを言語化するために、誰も真似できないほどの文字量を日々書き綴っている。
 
坂口さんは、自然界から『あなたは忠実に生きているの?』と言われるのだそうだ。
 
坂口さんのあり方は、私が学んだ舞踏と似ている。
 
私の目の前に広がるものがあちこちでシンクロしていて素敵だ。
眼前に映るものがねじれて見えることがある。
内側に熱がこもる。
今はこの流れを止めないでおこう。

・・

おまけ1
身体は一人一人違うけれど、血縁の身体を比べるのは面白い。他人と比較すると、私と両親の質感はとても似ている。遺伝を実感として、手の感触で感じる。兄なんてもっと面白い。自分と兄の動きがそっくりだと思うことがある。走る動きとか、アゴの角度とか、足首の動きなどが特に(笑)これは私にしかウケない話だな。
 
おまけ2
ラジオで流れていたくるりの『渚』
心が癒されます。
 
坂口さんのパステル画
↓ ↓ ↓