「動くこと」は「生きること」それ自体だ。
私のホームは「動き」の領域である。
「生活」「リハビリ」「運動」「スポーツ」「ダンス」「芸術表現」などいろんな活動があるけれど、それらの土台となる部分でもあるし、「動き」はそれらの共通言語ともいえる。
だから私は上記のどのエリアでも「動き」という共通言語を介して渡り歩くことができるトラベラーみたいなところがあると思う。
その中でもやはりダンスは難しさを感じる。
ダンスは言語以前からあったものであり、
定住以前からあったものである。
だからルールがない。
ルールは定住社会になってから生まれたものだ。
「運動」「スポーツ」には明確なルールがある。
そのルールは、人間が決めたルールだ。
もちろん芸術の中にもルールがあるけれど、普遍的な法則を頼りにしたルールが大きいのかなと思う。そう考えると、人間が決めたルールがないというところに難しさを感じる現代人は多いんじゃないだろうか。
「動き」と切っても切り離せない「重力」は、普遍的な存在だ。
でもそればかりに頼って踊るとしたら、それはロボットでもできる踊りになってしまう。
だからダンスには、生命の営みそれ自体が必要なんだろう。
言い換えば、死という前提がないとダンスは生まれないんだろう。
私の人生の前半はスポーツや運動、リハビリの範疇が大きかった。
でも、ここにきてやっとダンスと向き合えるようになってきた。
20歳からバレエを勉強してきてよかった。
動きとエクササイズと踊りの狭間を行き来できる人生の始まりだ。
ダンスは生きる力を与えてくれるんだろう。
でも、現代人はまともに踊れない身体になっている。
普遍的なものと会話できる通気性のいい身体にするためにも、私の活動は必要なはずだ。
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「構造上、理にかなった動きとそうでない動きがある」
(故障する動きとそうでない動きがある)
19歳のときに出会った言葉。
私はなぜかその言葉にとんでもないときめきを覚えて
(言葉だけじゃないけど)
怖いもの知らずでどんどんその道に入っていった。
ちなみに「動くこと」は生きることそれ自体だと理解したのはここ数年のこと。
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