何のために身体を変えるのか

「身体づくり」と一言でいっても、
トレーナーによってやり方が違うだけでなく、その目的や動機にも大きな違いがあると思います。
  
誤解を恐れず言うなら、
私はまず、見た目の美や健康のために
身体づくりをやってきたのではありません。
 

 
もちろん、自分がキレイなボディラインの身体でいることは嬉しいです。
しかしそれはごくごくおまけのおまけの喜びであって、
私の喜びは全く違うところにあります。
 
健康のために身体を管理するというのも(こんなことを言ったらファンが減るかもしれないですが)そういうモチベーションはありません。
 
私はどちらかというと、この命を削って生きたいと思っています。
元気に生きることが目的ではなくて、この元気な命を燃やすことが目的です。
 
身体とは、命とは、自分が心の底から
「このために」と思うことに燃やすためにあると思っています。
 
知っている人ならわかりやすいので例えると、『鬼滅の刃』で言うところの煉獄杏寿郎のように生きたい(死にたい)と思っています。
 
なので長生きしたいとか、
いつまでも健康でいたいとか、
若々しくいたいという気持ちは
正直、最初から考えたことがありません。
 
ただ、私は自分の身体の快・不快に配慮して生きています。
私と身体の関係性は、どちらかというと、
身体が主で私が従という関係性です。
 
理にかなった動きをすると身体が喜ぶからそれをやってきました。
食べ過ぎたら身体が嫌がりますし、市販の靴を履くと嫌がるので、日常生活ではオールビルケンシュトックです。
 
しかし、私がいざ「このために」と火がついたものに関しては、睡眠不足でも、運動不足でも、身を削って力を尽くします。いざというときだけ、主従関係が逆転し、身体は私についてきてくれるのです。
 
このように身体の快・不快に配慮して生きていたら、
おのずと今の身体が立ち現れてきただけなのです。
(もちろん、それ相当の勉強と訓練をしてきていますよ。努力をしないで立ち現れたのではなくて、そういう動機で生きてきたということです) 
 
「身体を鍛える」という言葉にはどちらかというと、私が主で身体が従という前提で、「自分の身体にムチ打って、身体に言うことを聞かせる」というようなニュアンスがあるのではないかと思います。
 
ちなみにこの概念は、身体と精神や魂を別々に捉えることで生まれます。
日本では明治時代に西洋文化が大量に入る前までは、このような概念はありませんでした。精神と肉体という概念が生まれたことで、「身体を鍛える」という概念が生まれたわけです。
 
つまり「鍛える」という言葉は、
社会(権力)に適応するための社会的な行為のように思うのです。
そして同時にこんな疑問が立ち上がります。
 
「何のために鍛えるのか?」
 
社会を勝ち抜くため?(生産性を高めるため?)
モテるため?(承認されるため?)
 
自分をより良く見せること。
これが「身体のディスプレイ化」ということなのではないかと思います。
(良いか悪いかということはここでは置いておきます)
 
私にはこういう規範が多分、あまりありません。
むしろその逆の構えを持っています。
それは「社会(権力)に適応せず自分を保つ」という動機です。
 
社会や外側の流れと距離を保ち、
自分を見失わないようにするために、
自分の身体に配慮しているということです。
 
これは今まで意識してきたことではありませんが、
ここ最近、言語化できたことです。
 
日本の身体観は、明治以前では「身」という言葉を使っていました。
身とは「中身が詰まった」という意味で、私も精神も肉体も魂も分かれていません。
 
明治以降は「身体」という言葉に変わり、現代もこれが使われています。
精神と肉体が分かれることで、「身体を鍛える」という概念も誕生しました。
 
そして近代化によって、何のために身体を鍛えるのかという目的や動機があいまいになり、自己目的化してしまうことでドツボにはまってしまう人がたくさん増えてしまったと思います。
 
(鍛えることが手段だったのに、いつのまにかそれ自体が目的になってしまい、最悪の場合、願いとは逆の結果を招くこと。例:ダイエット自体が目的化して、摂食障害になる)
 
そんな現代の私なりの処方箋は、
「自己の身体に配慮する」というあり方です。
それは「自分の身体を他者として扱う」という感覚です。
 
その動機は決してナルシスト的なものではなく、
社会(権力)と自分の距離を保つためであり、
 
自己の身体に配慮する
=自分が自分の身体を見る
=自己を再帰的に見るという営みであり、

それは反射的に、無意識に動いてしまうアンコントローラブルな身体から、感情や思考を含めて自分を自分でコントロールできる身体へシフトをするという目的を果たします。
 
私は自分の身体づくりを通してこういうものを育んできました。
生徒さんへの指導も、(最初のきっかけの入り口がどうあれ)このような目的をもってやっていきたいと思っています。
 
桃子作・煉獄杏寿郎❗️