夜更かしのもの思い

文明が生まれる前の狩猟採集民族の時代は、150人程度の部族(仲間)を守るために敵を殺す必要があった。
 
そしてその敵は、悪者と決まっているわけではなく、相手もまた、仲間を守るために戦う。
 
 

だからこそ、「敵ながらあっぱれ」と相手を讃える瞬間があった。今はそれがなくなってしまって、それに危惧する人たちは、たとえばあらゆる映像作品でそういう〈不条理で美しい瞬間〉を描いて私たちに訴えている。
 
定住してまだ1万年程度しか経っておらず、国家という概念が出来てからはまだ200年程度。しかし私たちの遺伝子は、遊動民だった頃の先祖と変わらない。
 
そのムリさを自覚しているか否かに関わらず、そういうムリが色々とある中で私たちは生きている。
 
近代は、14世紀にペスト流行がなければ起きていなかった(もっと遅れてやってきた)という。今現在は、コロナによって、新しい時代が急速にやってきた。
 
急速な変化だからこそ、誰もが認識できる。
それはつまり、年々分断によって他者と共有できなくなってパワーが落ちた現実が、一時的に力が戻るということなのかな。
 
地球の視座からみれば、生態学的なルーティンにすぎないことを人間的視座としては大災害とみる。

今、何が起きているかをなるべくきちんと捉えるには、両方、というより多視座がないと難しい。多視座によって解像度をあげれば、社会が生み出した幻想に対して苦しむことはよりなくなる。
 
社会という人間が作り出した目に目ない枠組みの外に世界があり、世界はカオスが通常運転。
 
人間は元々は世界の住人だった。
だから、カオスに触れると人間らしさが復活する人もいる。
 
善も悪も持ち合わせている人間。
理性が支配できない感情を持っている人間。
 
言葉の外にある、感情の回復。
カオスに耐えられない人は、言葉に翻弄される。
言葉があっているかどうかという世界から脱すれば、幻想の恐怖に対して苦しむことはなくなる。
 
うーん、考察ここまで。

あ、やっぱりもう一つ。

人と会いづらい理由が生まれてしまったこの新しい時代に対して、どうすればいいか、考えないといけない。

自由に動けないこの時期に、そのことについて議論して人々が教養を身につけないと、差別や偏見が急増して、旅行もままならなくなるかもしれない。

性愛の退却もますます進んでしまう。
どうやって心をかわせばいいのか。
どうやって大切な人、仲間を見つけていくのか。
どうやって仲間たちと一緒に生きていくのか。
そしてどうやって、自分と違う道を生きる人を理解していく感性を育めばいいのか。