生きる意味が分からない人へ

札幌から帰って以降、
忙しい日々を送っておりました。
 
頭を使うことが格段に増え、
活字嫌いな私が難しい本を読む日々。

 

 
読むスピードはかなり遅いですが、知らないことを知ることの面白さに今更気づくことになり、今、与えられているこの環境に、心からの感謝と有難さを感じています。
 
新しい世界を知り、その魅力に気づき、突き動かされる知的好奇心に従って深入りしていくプロセスは、肉体こそ動かさないけれど、それは言わば「心の冒険」のようで、先週36歳という年齢を迎え、これからもっと実力をつけ、力を発揮していかなければならない年齢に達した私にとって、ふさわしいチャレンジだとも感じます。
 
今の私があるのは、これまでの私に関わってくださった方々のおかげです。
私と関わってくださった過去の全ての方に感謝したいです。
 

 

 
私の世代は、就職氷河期にあたる世代で、私の人生を振り返っても、その余波を実際に肌で感じてきました。社会に出る前から、「社会が私を助けてくれることはない」という前提で生きてきました。
 
ただ、私の場合は、両親や親族からの愛をしっかりと受け、育ててもらいました。それがどれだけ大切なことであったかということは、いろんな境遇で生きてきた生徒さんたちの話を聞くたびに、より強く感じます。
 
最近では、「孤独死」という言葉もよく聞かれるようになってきました。
私のところにも、「孤独死(ゆるやかな自殺)」や「自殺」が人ごとではない状態の方が、実際に目の前に現れるようになってきました。
 
日本の若者の自己肯定感は、先進国の中でも、ダントツに低いそうです。
 
それは30代以降の大人にも感じることが多々あり、死を強く考えるまでには至らなくとも、自分の容姿に対する強迫観念的なコンプレックスを抱え続けている方は多いです。
 
強く「死にたい」と考えている人には、私は仏教の考えを使ってお話をします。
(恐山のお坊さんである南直哉(じきさい)禅僧のお話がベースです)
 
仏教では、「生」を手放しで喜ぶ考えはありません。
私たちは気づいたら生まれてきました。
両親も肉体も、選んでいません。
(スピリチュアル系の方で、選んだという意識がある人は置いておいて)
 
そのため、仏教では「課せられた命」と表現します。

誰もが自分の身体を選んで生まれてきたわけではありませんが、でも、誰もが自分の身体に同意して生きるしかありません。
 
そんな「課せられた命」をよりよく生きていくためには、私たちは自らの意思で生まれてきていない以上、途中で「覚悟する」ことが必要なんです。つまり「課せられた命を引き受ける」ということです。これを、仏教では、「中動態」とか、「他律的自立」と言ったりします。
 


 
また、私たちの営みは、地球の誕生から消滅、もしくは、宇宙誕生から消滅までの歴史から換算すると、ほんの一瞬の瞬きのようなものです。その視点からすると、私たちの営みには何も意味がありません。
 
一方で、私たちの周りを見渡せば、全てのものに意味があると感じることもできます。
 
家の中の壁は、雨風を避けるだけでなく、安心やプライベートを与える役割があります。
柱は家が崩れないように支えてくれていて、窓は外の風や光を取り入れる役割があります。
家の中にある植木は殺伐とした空間に命の存在を感じさせてくれる役割もあります。
部屋の飾り物は、心にゆとりをや豊かさを与えてくれる役割があります。
外に出れば、電柱があり、電線があり、避雷針があり、全て意味があるものばかりです。
 
それは何にでも当てはまります。

例えば、あなたの人生の辛い過去でさえも、それがなければ今のあなたは存在しえません。

仮に、別の世界(パラレルワールド)で、「その過去がないあなた」があったとしても、それはもはや別人の話であって、あなたの話ではない。
 
また、もし、全く意味がないなら、宇宙も地球も生命も人類も、誕生すること自体がなくてもよかったはずが、宇宙が誕生してからすでに138億年も経っているらしいのです。
 
「生きるということは、意味がない。けれど、意味がある。」
 
また、仏教は科学的な態度を取ります。
 
「『生』を完全に否定することができない限り『生きることに賭ける』べきだ」という考えです。
 
そこには明確な根拠はありませんが、「『生』を完全否定できない限り『自死』を選択しない」というのが仏教の態度です。
 
私は、仏教のこういう、「生きることは素晴らしいのだから生きよう」というような、キレイごとを言わないところがとても好きです。「死」を強く考えている人に「生きることは素晴らしい」と言ったって、「お前はな」と思われるだけです。
 
このように、生きることを手放しで喜ばず、ちゃんと見たくないものも含めて色々と見た上で、その上で「生きることを決断する」というステップが、よりよく生きていくためには必要だと思います。
 
そして、もう一つ、死にたい人に言いたいことがあります。
 
「人間にはそもそも世界全体を見渡すことができません。だからこそ、あなたはまだ何も見ていないのだから、結論を出すには早すぎるかもしれないよ」ということです。
 
「社会」の外は「世界」があります。私たちは常に「社会の中」にいるから、外側のことを忘れがちになります。そして外側とは、私たちの遊動民時代の祖先が生きていた場所です。
 
簡単に言うと、人間(ホモ・サピエンス)は20万年前くらいに誕生しましたが、定住(=社会の誕生)し始めたのは、おそよ1万年前のことです。私たちの祖先は、19万年間は、社会のない状態で生きており、私たちは、4万年前に話せるようになったゲノム変異以外、祖先の遺伝子と変わらない遺伝子を持っています。
 
だから、そもそも、「社会の中が全てだ」と思って生きることは、人間には難しいということです。(この辺のことは、DB CLUBで詳しくお話しています。)
 
私たち現代人は、もはやジャングルの中で生きることはできない存在ですが、「〈作られた社会〉の中をダイナミックに生きたい」というのが、私のやりたいことであり、私の生徒さんに対しても望んでいることであります。
 

 
だからまず、社会の外に目を向けてください。
 
社会の中にいると、予定調和なことだらけで、「自分がロボットに入れ替わってもいいのではないか」と思いたくなることもありますが、社会の外では、未規定なもので充満しています。イメージは、「アマゾンのジャングル」です。美しくて、恐ろしくて、「生きてる!」と思うことができる場所です。
 
そして、身体の専門家として言いたいことは、「あなたの身体のことを、過小評価するな」ということです。あなたは専門家ではないから、身体の素晴らしさを私ほど知らないでしょう。でも本当は、あなたの身体はとんでもなくすごいものなのです。私もあなたも同じパーツでできています。
 
寝たら回復しているとか、傷が治る自然治癒力とか、食べたものが細胞を作り、うんちとおしっこや汗になって出ていくとか、寝ている間に無意識で変な寝相になっているとか、性交で新しい別の命が誕生するとか、3分くらい息ができなかったら死んじゃうとか、何もかも不思議すぎます。すごいことが毎日毎秒起きているんです。そういうことを知らないまま、見たいものしか見ないで、自己否定するのは、目隠しの状態で生きているようなものです。
 
そして、あなたの身体は、あらゆる物質と共存しています。そのことをきちんと自覚している人は少ないと思います。例えば、あなたは「ミトコンドリアちゃん」と共存しています。例えば、「人にもその他の生物にも優しくしましょう」と言うのなら、ぜひあなたの身体のことにも目を向けて欲しいと私は言いたくなります。
 
お腹が減っているのに食べないでいると、体内の中性脂肪が色んなプロセスを通ってグルコース(糖)になって、エネルギーとして使われます。(糖新生)この機能があるから、私たちの祖先は(戦時中の飢えも含めて)生きながらえてきた。これはすごいシステムです。そしてこれは、「痩せたい」と強迫観念的に思っている人にとっては悲報でしょうけれど、グルコースを脂肪に変えて体内に貯蔵することができるという、すごいシステムがあるが故にできる技です。
 

 
でも、私たちはある意味で「種の保存」という目的については、ものすごく大成功してしまった。だからこそ、自分自身がかけがえのない存在として認識できない人が増えているとも言える。
 
そんなことを考えていたら、手に負えないほど、やることがいっぱいあるんです。だから、「やりたいことがない」と言う人は、知らないことや見えていないことが多すぎるということなのではないかと、最近思うんです。
 
それは、「感情の劣化」がそうさせているとも言えます。
 
例えば私だと、食べたらウンチが出る不思議に毎日感動しています。
それとか、この前、本当にへんてこりんな寝相で寝ていて、「私」は寝ているから意識がないのに、でもこの寝相にしたのは紛れもなく「私」で、でも「私」はそのことを知らない。ということの不思議さに随分と心を奪われてしまいました。
 
食べ過ぎが続くと、ちゃんと脂肪細胞が増えて、お腹が「ぶよん」となり、運動と食事のバランスを調節すると、あれだけあった脂肪細胞ちゃんたちが、少なくなっている。「ふっしぎ~!!!」と、一人で興奮します。
 
私は生理初日のお通じが激しくなることが多いのですが、この前は「宿便も出て行ったな」というレベルの排便が起き、「すっきり~!サンキュー!」とルンルンになりました。私が普段、「宿便を出したい」と思ってもできないのに、身体がなぜか生理初日になったある日、それを勝手に起こすという不思議。もちろん、病気になる人、ならない人の不思議もあります。
 
身体の話をするとついつい長くなってしまいますが、世の中には面白いことがたくさんある。そういうのを知らないで、自分に閉じこもるのは待って欲しい。少なくとも、この記事を読んでいる人には。(ただし、正直、今本当に考えて欲しい人には、この記事が読まれることがあまりないのですが、、、)
 
このブログを読んで、少しは「生きることに賭けてみようかな」と思ってくれる人がいれば、幸いです。