縁によって存在する私

今日は”世界一の朝食”「bills」にて
お友達の夢と4時間マシンガントーク。
もうすぐしたら、しばらく会えなくなるので
その前に久しぶりに喋りまくりました(笑)

 
会話は女子トークから政治や社会、ビジネス、
仏教や縁の話まで(笑)
色んなことを話せる女友達がいることは
私にとってはとても嬉しいことです。
 
今日は大阪周辺で大きな地震が発生し、3名の方が命を落とされたとのこと。
 
今日、たまたまその時間に危険な場所にいて命を落とされる方がいる一方で
昨日と同じように生きている人もいる。
 
私も夢も関西人なので、親族はみんな関西です。
朝起きたら、関西で親族が命をもし落としていたとしたら
それはいったいどういうことなんだろうと考えても何も想像できません。
 
恐山にいらっしゃる禅僧の南直哉(じきさい)さんは
人は「出会い直し」をするために葬儀や法要をするのだとおっしゃっています。
 
相手はいつまで生きていて、いつから死んでいるのか
昨日まで元気だったはずの人を突然失うと
その境目をしっかりと認識することが難しく
相手がこの世にいないことをうまく受け止めることができないのだと思います。
 
大切な人が死者になっても、死者とその人の関係はこれからも続きます。
そのために、相手を死者として出会い直す葬儀を行うことで
きちんと区切りをつけていく一歩になるのだそうです。
 
私の母は、1991年に起きた信楽高速鉄道脱線事故に
間一髪で巻き込まれませんでした。
 
お友達数名と信楽に行くために、まさにその電車に乗るはずでしたが、
切符を買うのに時間がかかり、乗り遅れてしまったそうです。
 
もし、切符をうまく買えていたら、母たちは前方の列車に乗るはずでした。
小学2年生で母を失っていた人生がもしあったら今の私は確実にないわけです。
 
なぜ、自分が生きているのかなんていうことは考えても仕方のないことで、
生きていることを自分の都合よく捉えるのは私は好きではありません。
 
ただ、縁というものがあって、私と相手をつなぐ縁によって私は存在しているので
ただ、目の前にある縁を大切にしつつ、いつ死んでもいいというような生き方を
していきたいなと思います。